はじめに
近鉄奈良駅周辺に飾られているポスターが目に入る。
綺麗な絵だなと思った。
興味が湧いた。
しかしアートの見方というものが分からずにいた。
どうも美術館、博物館は説明を読むだけで終わってしまう。
こういう時はYouTube大学だ!
だがここで語られているのはカメラの出現の後、芸術家たちが打ち出してきた新たな描き方についてであった。
高島野十郎は写実である。
写実はどうやって見るべきか。
そう思いながらポスターを眺めていると閃いた。
筆者は絵は描かないが文は書く。
そしてこの文は徹底した写実ではないか。
写実を見る時はそこにある形、色を徹底的に写実し、またどんな香りがしそうか、風は?音は?と想像してみよう。
そう決意した。
しかし一枚一枚の絵をじっくりみているうちに、何を思ったか忘れてしまってはいけない。
そこでメモを取ることにした。
メモを取っていると注意されてしまわないか心配であったので、美術館のマナーについて調べた。
それによると、鉛筆でのメモは問題ない場合が多いらしい。
しかしながら色鉛筆、シャープペンシル、ボールペンなどでのメモは禁じられている場合が多いので注意が必要である。
高島野十郎についても調べた。
よく見かけられたのは以下のキーワードである。
・独学で絵を学ぶ
・仏教的思想に根ざしている
・度々奈良を訪れ風景画を残している
詳しくはこちらを参照してほしい。
http://www.pref.nara.jp/secure/165616/PR_Takashima_20210302%20.pdf
かなり入念な準備を経て、ようやく美術館へ向かった。
奈良県立美術館は身近であるにも関わらず一度も行ったことがなかった。
これまで開催されていた展覧会の情報を知り、なぜ行かなかったのだろうと悔やんだ。
楽しみな気持ちと不安な気持ちをないまぜにしたまま扉を開いた。
序
奈良会場ではじめに見せられるのは五重塔の絵である。
ポスターにもあったこの絵だが、実際に見てみると違和感を抱く。
…もしかして、お下手でいらっしゃる?
生まれてこのかた油絵など書いたことはござらん、という筆者が言っちゃあいけないだろうが、そんな気がする。
素人の絵を見ているような感じがする。
建物に重みがないのだ。
それはおそらく遠近法に失敗したような歪みのあるせいだ。
第一〜三展示室
第一展示室から順に、青年期、滞欧期、戦前期の作品。
やはり建物が歪んでいる。
重力に逆らっているかのようだ。
蓮の葉も様子がおかしい。遠近法で描けばそうはならないくらいの膨らみを見せている。
電柱は曲がっている。
植物は下を向いている。
林檎は腐ったようだ。
線は曲がりくねっている。
ケシの花。(いうまでもなくアヘン。)
それから静物画に出てくる壺。
後ろに見える影。
なんとも禍々しい。
そして何より禍々しいのは自画像である。
こんなに歪むはずがないというほどに歪んだ着物。
こんなに曲がるはずがないというほどに曲がった指。
異常だ。
この人物、かなり病んでいる。
綺麗な絵を見られると思ってやってきた筆者にとっては衝撃的であった。
そんなことを思っているうちに「からすうり」の絵の元にやってくる。
これもポスターで見たときは綺麗だと思った。
だがこうして見てみるとどうだろう。
やはり違和感がある。
(後ろを「綺麗だね〜」と言いながら、香水をプンプンさせたカップルが通り過ぎていく。)
烏瓜の実がこんなに瑞々しかったら、緑の葉も残っているはずである。
それが全ての葉が枯れているのだ。
ここで描きたかったのは枯れている葉とその中で毒々しいまでに赤く輝く実、それから後ろに潜む禍々しい影ではないだろうか。
そう思うと鳥肌がたった。
中学生の理科でフナや貝の絵を書いたことがあるだろう。
学生時代の絵として唯一残されているものとして、このようなスケッチが展示されていた。
生と死を見てきたからこそこんなに歪んだ絵を描くようになったのだろうか。
第四〜五展示室
戦後期の作品。
ここにくるとかなり明るい画風になる。
特に空の色が爽やかだ。
歪みや曲がりはあるが、後ろに潜む影のようなものがなくなる。
ただひまわりは太陽の方を向かずあちこち下を向いていたり、カンナとコスモスは毒々しいまでの色彩と曲がりくねった茎があったりと戦前期と共通する部分もある。
月を描いた作品には「月を描きたかったのではなく闇を描きたかった。月は観音様が通る穴だ」といった内容のキャプションが添えられていた。
やっぱり病んでるなと思う。
第六展示室
光と闇をテーマにした作品。
これまで見てきたことの答え合わせになった。
野十郎はいくつも蝋燭の絵を描いている。
やはり戦前は影が暗く、戦後は影が無くて明るい。
またこの人物、字もなかなかに歪んでいる。
それから、奈良を好んだのだとしたら、それは松があったからではないかと思う。
奈良はなぜだか分からぬが松が多い。
そしてこの松の描く線は元から野十郎の描いてきた禍々しい線と同じ形をしているのだ。
あとはディアライン。
重力を感じさせない野十郎の絵に近いところがある。
おわりに
全ての展示物を見終わって、野十郎とは頭の良い人物であり、仏教に影響を受けたためか、戦争への反発か、それとも己の人生に何か要因があったのかは分からぬが、何らかの闇を抱き、それを絵にしようとした人物であって、そのような描きたい絵を描くためには、先生から「こうでなければならぬ」という技術的なことを言われてはならないから、孤独を好んだのではないかと筆者は結論づけた。
絵を自分の言葉で理解できた経験は初めてである。
そしてそれはとても感動的な体験であった。
きっと筆者とは全く別の見方をされる方もいるだろう。
筆者とてこの解釈が絶対正しいとは思っていない。
ぜひ他の方の意見も聞いてみたいものである。
美術館を出ると、目の前に松の木があった。
この木もまた禍々しい線を描いていた。
やっぱりそうか。
そう思いながら美術館を後にした。
奈良会場での詳細は以下の通りだ。
また奈良以外でも巡回するようなので、ご興味のある方はお近くの展示会場で見ていただければと思う。
会場:奈良県立美術館
会期:2021 年 4 月 17 日(土)-5 月 30 日(日)
休館日:月曜日(5 月3日は開館)、5 月 6 日(木)
観覧料:一般=1000 円、大・高生=800 円、中・小生=600 円